函館はいい町 byアランドロン
函館はいい町
青柳町生まれ、浜に近く目の前は日本海の小さな漁港ある。
子供のころ夏には、磯舟に乗って、魚釣りや、泳いでうに、つぶ、なまこ、こんぶ、わかめ、かに、あわび等々焚火など暖まりながら焼いたり煮たり、食べた。
のどかで自由奔放な少年時代を満喫した毎日であった。
函館山には山葡萄や桑の実等があり、とって食べたり、チャンバラや鬼ごっこ、パッチ、ビー玉,カルタ、陣取り、軍艦ゲームと近所友達と遊んでばかりいた。
風光明媚溢れる函館だが災害も多かったようだ
昭和九年
祖母から聞いた話だが、函館の大火は凄かったという。亡くなった人
2、166人、行方不明662名?3月立待岬近くの家から出火。原因は突風で屋根が飛ばされ炉の火が風にあおられ燃え拡がり飛び火、子ども一人背負い二人は手を引いて火の中を逃げ回ったという。大森浜の岸壁に摑まり前からは火、後ろから高波という中で生きぬき命拾いしたと聞かされた。
昭和十九年
米軍は最初の北海道大空襲を敢行
米軍機動部隊は航空母艦五隻,戦艦三隻、駆逐艦二十六隻、潜水艦、海防艦
巡洋艦七隻、艦載機グラマンの大部隊を編成、B29二十機とともに函館だけでなく室蘭、苫小牧、釧路、根室、帯広に総攻撃をした。
二日間で青函連絡船は客船、貨物船合計十一隻四百二十九名が犠牲になった。
北海道南部一帯に大打撃を与えた。
昭和二十九年九月
台風15号は道南に上陸。最大瞬間風速四十五メートル
函館港を出てすぐ七重浜沖にて暴風と高波に合い、青函連絡線洞爺丸は転覆し沈没した。他にも北見丸、日高丸、十勝丸、第11青函丸など。
死者行方不明合わせて1、155名日本海難史上かってない悲劇の連絡船として歴史に名を残した。
タイタニックに次ぐ大惨事となった。
当時は小学6年今でも洞爺丸事件は記憶の中に残っている。